記事を投稿するためにDNのページを開いた回数よりも、自分の記事を読み返すためにDNを開いた回数の方が余程多い。自分の書いた稚拙な文章を読み返すのが好きなのだ。恐らく僕のDN記事を世界で一番読んでいるのは僕自身だ。来月からDNに新規投稿ができなくなる。それでも僕は自分の記事を読み返し続けるだろうから、最後に僕の、カードゲームについての思い出を書き残しておこうと思う。


カードゲーム、特に遊戯王には小学生の頃から大人になるまで親しんでいたにも関わらず、仲間内で遊ぶだけで、一度も大会に出たことはなかったし、出たいとも思わなかった。一緒に遊んできた仲間たちは僕も含めて全員オリジナルデッキともファンデッキとも呼べるようなものを使っていて、一般的なメタゲームとはかけ離れた、ある種ガラパゴス的な環境で楽しんでいた。
特に熱中していたのは大学生の頃だった。時間はあったし酒の味も覚えた。いきおい酒を飲みながらのデュエルが増える。
長期休暇はとりわけ痛快だった。昼過ぎから友人宅に集まって無限にフリプ、夕方にはスーパーで大量の酒とツマミを買い込んで深夜まで大宴会。テーブルの上を片付けたらまたデッキを取り出して酒を啜りながら空が白むまでブッ続けでフリプをし、酔いと疲れに任せて座布団を枕に眠りこける。昼にもぞもぞと起き出すと連れ立ってラーメン屋の暖簾をくぐり起き抜けのビールと腹ごしらえ、それから友人宅に戻ってまたフリプ。
大学時代はバイクで日本中を走り回ったり、神保町の古本屋巡りで買い集めた戦利品を薄暗い喫茶店でゆっくりと読み進めたりと他にも色々楽しみはあったものの、カードゲームを通じて仲間たちと遊び倒したあの日々は今思い返してみても目眩がするほどに青春だったし、当時も「俺は今まさに青春を謳歌しているな」と思ったものだった。


マジックに初めて触れたのは高校生の頃だったろうか。もしかしたら大学に入ってからかもしれない。いつもの仲間と一緒に第9版のテーマデッキを買ってきて遊んだ。僕が選んだのは赤単の『世界炎上デッキ』。遊戯王には無い色の概念がとにかく魅力的で、仲間内ではみんなそれぞれ違う色を選択した。各色が各人それぞれの個性に見事に合致しているように思われてなんとも愉快だった。あれから随分経ったけれど、それぞれが選んだ色は半ばパーソナルカラーとなり仰せていて、色を足してはいるものの全員が今なお当時選んだ色を使い続けている。赤を選んだ僕は赤単から始まり、今はURとRUGを愛している。
仲間内の極めて狭い世界の中において、赤は僕の色だったし、火力呪文は僕の十八番だったのだ。限られた世界で持ち得たちっぽけな自負。あの頃の僕は井の中の蛙だった。大会というまだ見ぬ大海があることを知らなかった。


僕たちは長く親しんだ遊戯王と同じように、マジックもまたカジュアルに楽しんでいた。デッキはメイン60枚のみでサイドは無し。フォーマットを気にすることすらなかった。数百枚入りのコモンの詰め合わせを買ってきてはみんなで開封し、そこから出たカードでデッキを強化して遊んだ。ブラブラと秋葉原のショップを散策し、ショーケースから面白そうなカードを見つけてはなけなしのバイト代を注ぎ込んで新しいデッキを組んだ。カードプールをほとんど知らなかった自分にとってはまさに宝探しだった。特に《ドラゴンの嵐》というカードを見つけてからはショップ巡りが楽しくて仕方なかった記憶がある。《ドラゴンの嵐》から引っ張るに足る強力なドラゴンを探し回ったのだ。あれはまさにまだ見ぬドラゴンと出会う旅だった。どこにカードショップがあるかもよくわかっていなかったので、秋葉原をとにかく闇雲に歩き回ってカードショップを見つけては飛び込んでいた。よくもまぁあんなに非効率なことをしていたものだと我ながら思う。今ほど発達していなかったとはいえ、ネットでショップを検索したり、ネット通販でカードを買うこともできたのだ。敢えてそうしなかったのは、宝探しの旅を楽しみたかったからだろうか。今でもカードを買うときはショップに足を運んで買う。目当てのカードが見つからなくて、秋葉原のショップを梯子することも多い。結局見つからなくて空振りに終わる日もある。それなのに、ネット通販でカードを買ったことはほとんどない。ショップで目当てのカードを探し当てた時の、ささやかな興奮を密かに噛み締めるあの瞬間。僕は今も、あの頃の習慣を引き摺りながら生きている。


大学を出て社会人になると風向きが変わった。
「今日ヒマ?デュエルしない?」「いいぜ、今からウチ来いよ」という二つ返事のやり取りはなくなり、デッキを持ち寄り毎週のように友人宅に集まっていた僕たちは、デッキではなく仕事カバンを片手に毎週居酒屋へと集まるようになった。
対戦する機会は激減したが、仲間内との飲み会ではカードゲームの話題は尽きなかった。各々が興味に任せて情報を追っていた。また、それぞれ就職して違う境遇に立ちつつある時期に、カードゲームという共通の話題は良いコミュニケーションツールだったのかもしれない。なによりみんな自分のデッキが好きだったし、カードゲームが好きだった。


何がきっかけだったか今となってはよく覚えていないが、あるとき居酒屋で「マジック、フォーマットを決めてちゃんとデッキを組んでみないか?」という話になった。古いカードも新しいカードもやたらめったに買い込んでいた自分たちにとって、スタンダードフォーマットはいまいち魅力的には映らなかった。既に持っているカード資産の多くを活かせないからだ。YPとしては馴染みのないローテーションという制度もどこか窮屈に感じられた。ならばなんでも使えるヴィンテージか、と思い立って調べてみたところ、パワー9を筆頭とする超高額のカード群に腰を抜かし、結局レガシーに落ち着いた。当時からデュアルランドやFoWは高額だったが、パワー9に比べたら幾分現実的に感じられたし、どうせ身内でしか遊ばないのだから当面はプロキシでもなんでも構うまいと思ったのだ。そのうち給料も上がるだろうし,懐が温かくなったら少しずつ買い足していけばいい。


フォーマットが定まれば情報収集の精度も上がる。赤単バーンを回していた当時、DNでへぎーお兄さんを発見する。URカウンターバーンとの出会いだ。正直痺れた。憧れた。なんてクールなデッキなのだと感動した。彼の膨大な量のDN記事を丹念に精読した。居酒屋で「こんなかっこいいデッキがあるらしい」と仲間達に熱弁し、今すぐにでもこのデッキを組みたいと渇望した。そのデッキリストには当然のようにVolcanic Islandが4枚記載されていて、打ちのめされた。この頃既に家庭があったのだ。決して多くはない小遣いでボルカ4枚をポンと買い揃えるのは至難だ。デュアランだけじゃない、FoWだって持っていなかった。無い袖は振れない。仕方無しにプロキシでデッキを組んだ。プロキシはボルカではなく蒸気孔にした。ボルカは恐らく買えないだろう。買う算段のつかないものをプロキシにするのはなんとなく気が引けた。蒸気孔ならば当時も買えたが、買わずにプロキシを用意した。蒸気孔を買ってしまったら、恐らくは買えないであろうボルカを、未来永劫買えなくなってしまうような気がしていた。自分の中で完全に諦めがついてしまうのが怖かった。


大学時代のようにはいかなかったが、社会人になっても仲間たちとはプロキシ入りのデッキで細々と対戦していた。たった数人で回す完全に固定されたメタゲーム。今や舞台はレガシーフォーマットである。楽しくはあったが、物足りなさも感じていた。サイドボードが無いので相性差を覆せない。サイドボードを組んでみたこともあるが、なんといっても仲間内数人で回しているメタゲームだ。たった数種のデッキをメタり合うことになる。サイドカードが強烈に刺さり過ぎてしまい、ゲームにならない。そもそも10回も20回も同じ相手と連続で対戦し続けるのだから、都度サイドボーディングをするなど面倒でしかたがない。
学生時代に熱狂していた遊戯王は絶妙なバランスの上に身内だけの閉鎖的なメタゲームが成立していたのだ。強烈なメタカードは自重し、汎用除去は暗黙の了解で採用せず、各人がメタゲームを壊さないよう注意を払い合っていた。だからサイドデッキ無しでも楽しめた。時間があったから出来た芸当だ。あの頃は毎週のように集まり、密にコミュニケーションが取れていた。デッキ構築の落とし所を肌感覚で理解できていたのだ。今や僕たちには、理想的なメタゲームを醸成する時間が圧倒的に不足していた。


丁度この頃妻が妊娠し、19歳の頃から乗り回していたバイクを売る決心をした。
中古で買った僕の愛機SR400はまごうことなきポンコツで、ガソリンはしょっちゅう染み出すし、雨に降られる度に水がキャブレタに侵入してエンストしたものだった。高速道路の真っ只中でいきなりエンストして肝を冷やしたこともある。それでもレッカーされることなく北は青森から南は鹿児島まで、僕を乗せて走り抜いてくれた大切な相棒だった。もう乗らないにせよ売るのは流石に気が引けて自分の手元に置いておこうかとも思ったが、バイクは走らせていないと一気に劣化していくもので、次第に錆びつきタイヤから空気が抜けていく愛機を見るのも忍びなく、ならばまだ走れるうちに他の誰かに乗ってもらった方が幸せだろうと、売ることを決めたのだった。


買取査定に来たバ◯ク王の兄ちゃんがオンボロの相棒を一瞥して「これじゃ値がつきませんね、5000円払ってくれたら引き取りますよ」などとのたまうものだから、まぁ大したお金にもなるまいと覚悟していた自分もその言い草にムッとして、じゃあ構いませんそのままバイクを置いてお引き取りくださいご足労おかけしましたと返したら、向こうも手ぶらで帰れぬ事情があるのか「なら5000円で買い取りましょう」などと言い始めたものだからこちらも興が乗り、それじゃ売れない、ならこの値段では、それでも売れない、ええいそれじゃあこの値段で、などと散々言い合って、根負けした兄ちゃんが支店長だかなんだかに電話をかけてなにやらゴニョゴニョやった挙句、最終的に4万円で買い取ってくれた。彼は別れ際に「この金額は、自分が会社に戻った後にこの車両をピカピカに磨き上げるって条件で出せたものなんですからね」と見事な捨て台詞を残して帰っていった。あの兄ちゃんがこの記事を目にする機会もないだろうが、その節は失礼しましたとここに陳謝したい。
脱線したが、この4万で当時1枚1万したFoWを4枚買い揃えた。バイクを売った金でカードを買った、ただそれだけのことなのに、ローンで買った大切なバイクが今の趣味に地続きになっている気がしてなんだか感慨深かった。高額なカードは買った時の状況をよく覚えていてそれぞれに思い入れがあるものだが、このような事情でFoWに関してはことさらに思い出深く、あのエンストしがちな400cc単気筒の影が重なり、僕にとって大切なカードとなった。
高額カードの収集はレガシーフォーマットの大きな参入障壁となっている。この障壁を乗り越える最初の一歩を踏み出させてくれたのは若き頃の相棒だったSR400であり、今も使い続けている4枚のFoWだった。


身内の固定されたメタゲームをいまひとつ突き抜けられない状況が続いていた当時、本当に唐突に、なんの予兆も無く「そうだ、大会に出てみよう」と思いついた。
デッキが完成していたのなら筋も通りそうなものだが、当時は確かにプロキシだらけのつぎはぎみたいなカウンターバーンを握っていた。まともなカードは比較的安価なものとFoWくらいのものだったろう。それ以外はプロキシか、自宅のストレージから引っ張り出してきた下位互換の代用カードの束だった。
なぜ大会に出てみようなどと思ったのかは全く覚えていない。しかし、大会に参加している自分を想像して無性に興奮したのははっきりと覚えている。新たなステージに挑戦する高揚感。胸の底からワクワクするようなあの感覚は、バイクの免許を取った時や、初めて三味線に触った時に感じたのと同じものだった。


そこからは早かった。カウンターバーンには使わないカード資産を売って、ボルカを1枚だけ買った。いつか絶対にあと3枚のボルカを買ってみせると決意しつつ秋葉原を走り回って諸々の不足カードを買い漁ると、すぐに予算は底をついた。仲間に連絡して、大会に出るから使ってないカードを貸してくれと頼み込んだ。当時はネメシスやヴェンディリオンあたりが高額で、クリーチャーを揃えきれずに仕方無くデルバーを突っ込んだ。カウンターバーンは要するにURコントロールなのでテンポデッキでこそ輝くデルバーはいかにも不適切な選択だったが、とにとかくにもデッキらしき75枚の束をでっちあげた。この日は2017年3月25日。DNのアカウントを取って、初めて記事を投稿した日だ。


翌日の3月26日夕方、晴れる屋トーナメントセンターで大会童貞で捨てるため、急造のデッキを握りしめて高田馬場駅へ向かった。
参加したのは17時回と20時回。この日マッチアップしたデッキや対戦相手とのやり取りは自分でも驚くほどによく覚えている。特に印象的だったのは、憧れていたへぎーさんとマッチアップしたことだった。こちらの構築は相当怪しかったが、デッキ被りの無い仲間内でだけ対戦してきた自分にとっては、人生で初めてのミラーマッチだ。最初のダイスロールから極度に緊張していて大汗をかきながらプレイして、対戦後に「同じようなデッキでしたね」と声をかけてもらってようやく緊張が解けたものだった。
初めての大会参加は当然のようにボロ負けだったけれど、想像を遥かに超えた楽しさがあった。正面に座る見ず知らずの対戦相手が自分と同じ趣味を楽しんでいて、僕と同じように自分でカードを買い揃え、組み上げたデッキを目の前で回してのけるその光景は、狭い世界の中で遊んできた自分にとってはなんだか新鮮で、どこか不思議に感じた。


同好の士がこんなにいるのかと目を丸くしつつも、人生初の大会参加は僕にとって間違いなく最高の体験であり、ハマるなと言う方が無理だった。平日は仕事カバンに毎日デッキを忍ばせて、上手く仕事を捌けた日には一も二もなく晴れる屋へ直行した。大会受付締切時間ギリギリで、高田馬場駅からダッシュした事も数え切れないほどある。台風の日に濡れ鼠のようになりながら晴れる屋に転がり込み、それでも卓が立ったあの日は、僕と同じように台風をものともせずに集ったレガシープレイヤーがこんなにいるのかと、なんとも嬉かったものだ。電車が止まるだろうとニュースになっていた大雪のあの日にもなんとか晴れる屋に辿り着き、大会参加希望者が僕一人で涙を飲んだのを覚えている。
死に物狂いで仕事を片付けて、片付かない時は明日の自分に仕事を丸投げして、晴れる屋に直行し、知り合いなんていないから誰とも喋らずに大会に出て、ボロ負けして、高田馬場のラーメン屋でビールを飲みながらその日の試合を振り返ったりサイドボードを再検討したりして、帰りの電車の中で対戦記録をDNに書き殴る。何度繰り返したかわからない、恐ろしく単調なルーティーン。何がそんなに面白いのだと言われるかもしれない。他にもっと楽しことがあるだろうと。しかし、ボロ負けしながらも淡々と大会に出続けたあの日々、自分の無様な負け方をDNに書き殴り続けたあの日々は、友人宅で謳歌した青春の日々を置き去りにして大人になってしまった自分にとっての、確固たる青春だった。


夢屋についても書いておきたい。
僕が夢屋に通ったのは一年かそこらで、他の常連の皆様方にとっては一見さんみたいなものだったろうが、通いやすい立地だったこともあり、大会に出始めたばかりの頃はよく通った。毎週火曜は夢屋の日だった。
あの薄暗い店内の独特な雰囲気を、なんと表現したらよいだろうか。昔のカード屋特有のアングラ感とでも言おうか。僕のような素人にはその価値はわかりかねるが、その筋の人が見れば垂涎モノであろう高額カードがズラリと並び、店の奥にはアーケードゲームの筐体が鎮座し、壁という壁にMTGのポスターが張り巡らされていた。あの雰囲気が好きだった。
うろ覚えだが、店内のどこかに「店員がフリプのお相手します」みたいな張り紙がしてあって、客が僕しかいない昼下りに勇気を出してフリプをお願いしたことがある。いいですよ、と二つ返事で受けてくれた店員さんは、黒枠のデュアランがふんだんに盛り込まれているご自身のデスブレードを惜し気もなくリフル・シャッフルしていて大層驚いたし、同時に羨ましいとも思った。この方は自分のデッキを手放す気など毛頭無いのだろう、だから自分のカードをまさに自分のものとして扱っているのだ。店員さんは、僕のデッキをカットする時にはとても優しく、丁寧にカットしてくれた。彼の自然な、誠に堂にいったリフル・シャッフルは彼のある種のカード愛を感じさせたし、夢屋のアングラな雰囲気も相まって映画のワンシーンを見ているようでとても印象的だった。
晴れる屋にはない、常連勢による独特なメタゲームが懐かしい。コーラを飲みながら大会が始まるのを待つちょっとした時間が、たまらなく良かった。無くなってしまって残念だけれど、何年も先、僕がMTGについて思い返す時には、夢屋のあの薄暗い店内を昨日のことのように思い出せるだろう。


晴れる屋に通い詰めるうちに、かなり時間はかかったが、少しずつ顔見知りが増えた。Twitter経由で知り合う事もあったが、なにより大会で何度もマッチアップすることで雑談できる人が増えていた。感想戦で自分のミスに気付かされたり、時には試合を後ろで見てもらってアドバイスを頂いたりもするようになった。カウンターバーンではUR界隈の方々にお世話になり、カナスレではカナスレ調整LINEグループの皮を被った雑談・飲み会が主な活動の皆様に色々と教えて頂いた。プレイングを学ぶたびにひとつのターンが重くなり、1枚のカードが重くなった。一度の試合がより重要なものになった。首尾よく2-0できた日の、最終試合の卓に向かうあの瞬間の緊張感。ショップを回ってカードを集め、苦労して組み上げたデッキでここ一番の勝負に行く時の高揚感は、堪らない。


二人目の子供ができて、長らくカードゲームから離れていた。昨年末頃から『俺の奮闘記』という、3-0するまで毎日漫画を描き続ける企画で半ば無理やりMTGに復帰した。
久しぶりのMTGは、僕の知らないカードが環境で暴れ回っていてなんだか疎外感を感じたけれど、いざ大会に参加してみれば、あの頃と全く同じように楽しかった。二児の父になり人生のステージは変わった。でも、MTGの楽しさは変わっていなかった。僕から我が子にMTGを勧めることはないだろうが、僕にとってのMTG、僕にとってのカードゲームのように、子供たちにはいくつになっても心の底から楽しめる趣味に出会って欲しいと、切に願う。


随分ひとりよがりな文章になった。それでも、このDiarynoteというブログサービスに寄せる最後の記事としては相応しいような気もしている。いつかまた読み返した時に、昔の日記帳を紐解いた時のような甘酸っぱい気持ちになれるかもしれない。
気恥ずかしいけれど、最後は僕のDNページのサブタイトルで締めくくりたい。


俺のマジックは今でも最高で、今でも青春だ。

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